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 鎌倉幕府の有力御家人である和田義盛は、わずか150騎の兵を集めただけで、鎌倉幕府の北条義時を急襲した。世に言う和田合戦である。この戦いで和田方にたって、ひときわ華々しく戦う武者がいた。和田義盛の三男で、朝比奈三郎と呼ばれる和田義秀だった。朝比奈三郎は、「刀で一人一人斬るのは面倒なり」と、馬上から三メートルの鉄棒を振りまわし、幕府方の名だたる武将を見つけては、手あたりしだいに討ち取った。朝比奈三郎が政所橋近くまで来た時、馬に乗って逃げようとする敵の武将がいた。よくみると北条義氏だった。「待て、卑怯なり、返せ」とわめきながら朝比奈三郎の馬が迫ってきた時、義氏の馬は、ひらりと堀を越えた。朝比奈三郎もその堀を越えようとしたが、馬はひどく疲れていて、堀を越えることができなかった。こうして戦いは、翌日の朝方まで続いた。夕刻には、和田勢を率いる和田義道・義盛も討ち死にし、和田勢のほとんどは、討ち取られてしまった。それでも朝比奈三郎は、まだ健存だった。「もはや、これまで」と見きりをつけると、和田方の残った兵五百を集めて海岸に出、船を奪って安房に逃れ、その後の消息はわからなくなった。
 
本所松坂町吉良邸の前に義士四七人が詰より表門裏門と搦め合図に山麓竜の陣太鼓を打ち鳴らし、討ち入りする。
 
天正十一年(1583年)に、賤ヶ嶽の合戦で柴田勝家を破り、名実ともに織田信長の後継者となった羽柴秀吉は九州平定を目論み、天正十五年(1587年)に島津義弘を攻めた。この戦で島津方屈指の勇将鬼武蔵と仇名された親王武蔵守忠元と槍一筋の武功派の加藤肥後守清正との一騎打ちがあり、両雄死力を尽くすが、武蔵守が振り回した金棒が誤って自らの馬の脚に当たり、馬もろとも崩れ落ち、ここぞとばかりに肥後守清正が槍を入れようとするが、戦国の名将との決戦をこんな形で討ち取るのは惜しいと思い槍を収め、「今度馬を乗り換え正々堂々と戦いを致そう」と引き返し、この決戦は引き分けに終わっている。九州征伐での有名な場面として、 親納武蔵守忠元と加藤肥後守清正との一騎討ちの場面が掘りこまれている。