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 1600年関ヶ原の戦いで石田三成らの勢力が徳川家康を中心とする勢力に破れ、天下は豊臣家から徳川家に移る。1603年には家康が征夷大将軍に任じられ、名実ともに家康は日本の支配者とな った。豊臣家は事実上、大阪を領地とする一大名の地位に落ちる。しかし、豊臣方では大阪城の事実上の主である淀君(茶々)らは、家康はまだ秀吉の子の秀頼が幼いからいったんは家康が将軍になっただけで、次はまた豊臣である、などという甘い考えを持っていた。しかし豊臣方が一向に徳川家を天下人として認めないことにいらだった家康は、1605年将軍職を自分の息子の秀忠に譲るという行為に出た。これに対して淀君は驚くとともに態度を硬化させ、両者の緊張は高ま る。

 かくして1614年11月、大阪冬の陣が起きる。戦況は真田幸村らの軍が一人気を吐いた他は徳川側の優勢のまま和議へ。和議の内容は 書面で交わした分には非常に豊臣側に有利なものだったが、大阪城の外堀を埋めることを豊臣側は同意した。しかし、徳川側は外堀だけでなく内堀まで埋めてしまう。 そして、春4月。その裸城になった大阪城に対して、家康は諸大名に攻撃を命令。4月26日、大阪夏の陣が開戦した。

  二重の堀に守られて徳川方が攻めあぐねた冬の陣と違って、夏の陣では豊臣方も籠城している訳にはいかない。たびたび外に打って出るが、戦況は厳しく、5月6日頃にはだいたいの勝敗が見えて くる。ここで徳川方は7日に家康の孫娘・千姫を厳しい淀君の監視下から城外に脱出させることに成功。そしてこの日、最後の決戦も行われた。 この戦いで、散々徳川を苦しませた真田幸村も戦死。豊臣方の主戦力も壊滅して、完全に勝負は付いた。

  そして翌日の昼頃、淀君と秀頼の母子も自決。豊臣家は滅亡する(秀頼の遺児国松は捉えられて23日に処刑)。1582年の本能寺の変の後秀吉が天下を取ってからわずか33年のこと だった。